ラムの歴史

ラムの歴史とは、世界中の様々な場所を舞台に、様々な時代の人々が織りなしてきた壮大なストーリーである。しかしながら、ラムという酒自体は人間の業と欲によって生み出された産物だったとも言える。というのも、ラムの歴史はそのまま砂糖の歴史であり、それはすなわちヨーロッパ列強による植民地支配の歴史と言えるからである。これはトリニダード・トバゴの歴史家であるエリック・ウイリアムズの言葉「砂糖のある所に奴隷有り」が示す通りである。では、なぜそうなったのか。コロンブスの新大陸発見から歴史を紐解いてゆきたい。

1. コロンブス



コロンブス

ジェノバの船乗りクリストファー・コロンブスはスペイン両王の庇護のもと、1492年にバハマ諸島のグアナハニ島へ到着した。そして翌年の第2回目の航海のとき、コロンブスはカナリア諸島産のサトウキビの苗をカリブに移植した。スペイン両王へ宛てた備忘録にも「持ってきたサトウキビは少なかったが根付いた。」という記述が残っている。つまり、コロンブスが持ち込むまでは中南米カリブには、1本たりともサトウキビは存在しなかったのである。
サトウキビの他には、ヨーロッパから小麦、米、コーヒー、オレンジ、レモンなどを、新大陸からはタバコ、トマト、唐辛子、トウモロコシ、ジャガイモ、豆類、カボチャなどが運ばれ、それによりそれぞれお互いの食生活を一新させることになった。



2. 新大陸のプランテーション化



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16世紀初頭、イスパニョーラ島(現在、ハイチ共和国とドミニカ共和国がシェアしている島)に最初の製糖工場が建設され、ジャマイカやキューバなどの周辺諸国に広がっていった。スペインの製糖産業は順調に伸びていたが、並行して行っていたもともとの第一目的である金鉱脈開発は、金の枯渇により頓挫した。そこで、スペイン人は黄金を求めて中米や南米大陸へ移住して行ったため、カリブの島々はいったん過疎化した。

3. カリブの海賊



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フランシス・ドレイク(1563—1596)

キャプテンモルガン

ヘンリー・モーガン(1635ー1688)

コロンブスによる新大陸発見以降、出遅れてしまったイギリス、フランス、オランダなどの国々は、何とかスペイン勢力圏に割り込むために、スペイン船やスペイン植民地を襲撃するところから始めた。ここで暗躍したのがフランシス・ドレイクに代表される私掠船や、ヘンリー・モーガンに代表されるバッカニアといった海賊たちだった。これにより、スペインは急速に弱体化したため、イギリスやフランスなどは、過疎化していたスペイン領カリブの島々を次々と占領し、島の風景を一面のサトウキビ畑に変えていった。

4. 先住民



アラワク

アラワク族

カリブ

カリブ族

インディオと名付けられたもともとの住民は、アジアから渡来したモンゴロイドである。ベネズエラのオリノコ川流域からアラワク族、タイノ族、カリブ族などの部族が1世紀頃から徐々にカリブの島々に移り住み、他の文化圏からの影響をほとんど受けることなく、独自の文化を確立していた。
カリブに入植したヨーロッパ人は、このインディオをサトウキビプランテーションの労働力にあてた。その結果、強制労働と虐待、またヨーロッパ人が持ちこんだインフルエンザなどのウイルス感染により、インディオはカリブ全域でほぼ絶滅した。

5. 奴隷貿易



名称未設定

(「リヴァプール船籍の奴隷船ブルックス号の平面図」Clarkson,Abstract of the Evidence 1791より)一人に許された空間は、縦1.8m、横0.4m。体を動かすことも困難な程すし詰め状態な上、鎖で2人ずつまたは後ろ手に繋がれていた。

多大な労働力が必要となるサトウキビプランテーションで、入植者がインディオの次ぎに選んだのはアフリカの黒人だった。カリブとアフリカは気候が似ているため熱帯での作業に向くと思われたことと、アフリカ人はインディオと違い、ウイルスの免疫があったことが主な理由である。16〜18世紀の300年間で1500万人ものアフリカ人が奴隷としてカリブに連行された。この結果、カリブの人口構成は18世紀末には、アフリカの黒人が9割近くにまでなった。

6. 三角貿易



こうしてヨーロッパから武器や綿織物などをアフリカへ、アフリカから奴隷を中南米カリブへ、カリブからヨーロッパへ砂糖を取引する悪名高い三角貿易が始まった。これによりヨーロッパ諸国は資本を蓄積し、それが後々の産業革命を起こす資金となった。

7. ラムの誕生



海軍

16世紀後半になり三角貿易が本格化してくると、砂糖は作れば作るだけ売れるということで生産量が飛躍的に増加した。サトウキビから砂糖を造るとき、結晶化して砂糖になる部分と、結晶化しない=砂糖にならない部分が同時に出来る。この砂糖にならない部分のことを、日本語で「糖蜜」と言う。砂糖の生産量が増えれば、それと同時に糖蜜の生産量も増えることになる。そこで、この糖蜜を発酵、蒸留することによりラムが誕生した。
こうして生まれたラムは、支配者階級が飲むためではなく、奴隷達のエネルギーを補給したり、御しやすくするための道具として用いられていた。また、ラムは当時の船乗りが恐れていた壊血病の特効薬と信じられていたため、商船や海賊船、海軍などの船や港の酒場に置かれていた。特に、イギリス海軍は17世紀から1970年代まで、ラムを壊血病対策の薬として支給していた。

8. ラムの品質向上



ペールラバ

誕生当時のラムは、香りや味がとげとげしく、酒質は荒いものだった。 1693年に、フランスからカリブのマルティニークに渡ったフランス人修道僧ペール・ラバは、コニャックの蒸留機や技士を持ち込み、ラムを本国の酒造り同様に行うようにした。その結果、それまで奴隷や船乗りの飲み物だったラムの品質は、ほぼ現在のレベルまで向上し、砂糖と共に第一級の貿易品として輸出されるようになった。

9. アグリコールラムの誕生



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18世紀になると、サトウキビが育たない寒冷地で栽培できる甜菜(ビーツ)に、サトウキビと同じ甘味成分が含まれることが発見され、19世紀になるとこの甜菜から造った砂糖(甜菜糖)が実用化した。
フランス皇帝ナポレオンは、この甜菜糖の栽培を奨励したため、フランス国内で当時の全世界の砂糖生産量の内5%を造り出すまでに成長した。これによりフランス領植民地の製糖会社は、フランス本国での砂糖の市場を失い、次々と倒産していった。
ラムの需要は伸びているものの、ラムを造るには砂糖を造らなければ、原料である糖蜜を得られない、というこの問題を打開するため、フランス領植民地において、新しいタイプのラム造りが確立した。それは、今までのように糖蜜からラムを造るのではなく、サトウキビジュース100%をそのまま全部、発酵、蒸留する方法だった。この製法のことを「アグリコール」と言う。マルティニーク産のアグリコールラムは1996年よりフランス本国からAOCを獲得している。

10.現在のラム事情



現在の動向としては、まず、ラム生産地が拡大している事があげられる。今までラムを生産していなかったアジア圏やアフリカ圏などで、新しい本格的なラムブランドが誕生した。特にアグリコールラムやハイテストモラセスを原料にしたラムの生産が増えている。モーリシャスのシャマレル、ラオスのラオディ、日本のイエラムサンタマリア、ナインリーヴスなどが一例である。
また国際的なラムフェスティバルの開催国が増えた事もあげられる。マドリッドやパリ、ベルリン、ロンドン、マイアミのラムフェスティバルが一例である。また世界各地で行われているモンドセレクションやヴィネスポ、カクテルコンペティションにも各メーカーとも積極的に出展している。これがラムの更なる品質向上とイメージアップに繋がっている。

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(Ⅲ CONGRESO INTERNACIONAL DEL RON MADORID 2014)

このようにラムとは、400年以上の長きに渡り、常に歴史の流れに影響を受けながら、経験と工夫を重ね、今なお進化し続けているスピリッツであるといえよう。

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